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大阪関帝廟由緒
関帝聖君
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関帝廟と中国人

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関帝聖君

関聖帝君は、いまから約1800年前(西暦200年前後)の後漢、三国時代にかけて活躍した実在の武将です。姓は関、名は羽、字(あざな)を雲長といいます。  後漢末期宮廷内部は宦官の悪政のため、漢王朝は末期的な症状を呈し、そのために世の中は飢饉と貧困が蔓延し、黄巾賊(太平道という宗教集団・頭部に黄色の頭巾を被っていたので黄巾とよばれた)の反乱が世の中を騒がせていました。  乱世をただすため、関羽様・張飛・劉備の三人は義兄弟の杯をかわし、義勇軍に参加し黄巾賊征伐に立ち上がります。

「我ら天に誓、我ら生まれた日は違えども、死すときは同じ日同じ時を願わん」
これは劉備を長兄、関羽様を次兄、張飛を末弟とした義兄弟のそして主従の杯をかわしたときの有名な台詞で、これを「桃園の誓い」といい、この日より関羽様は劉備に生涯忠誠を誓い、義弟張飛とともに劉備を助け、国家の安泰のために国作りに立ち上がりました。

関羽様の人柄を語るうえで「義」は忘れてはなりません。義とは「義理人情」「義を見てせざるは勇なきなり」といわれているように義侠心のことです。劉備は「仁」に、関羽様は「義」に最も重きをおいていると言われ、その代表的な逸話は曹操との一件です。 それは建安5年(西暦200年)劉備は小沛で曹操に敗れ、袁紹のもとに落ちのびたとき、関羽様の元には劉備夫人が居たために、曹軍の武将張遼の説得を受け入れ、曹操に降伏を決意します。しかし、関羽様は曹操に降伏するにも、次の3つの条件を引き替えに出しています。  

1、曹操に降伏するのではなく漢朝に降伏する。  
2、劉備夫人の安全を保証すること。
3、劉備が生きていることがわかれば劉備のもとに帰る。

  このことでも判るように、関羽様の劉備に対する忠誠心は、揺るぎない絶対的なものでした。曹操はこの様な関羽様の人柄に惚れこみ、偏将軍の位 や金銀財宝を与え、さらに赤兎馬という名馬を与えたりと礼遇をきわめました。しかし、関羽様は金銀財宝には興味を示さず、それらをすべて劉備夫人に献上し、赤兎馬だけを手もとに残し、これで劉備のもとに駆けつけられると喜んでいたといわれています 。

やがて袁紹が白馬に攻め込んでくると、関羽様は曹操から受けた恩への返礼として袁紹軍の将顔良、文醜を切り曹操軍に勝利をもたらします。その後、離散していた劉備の行方が分かると屋敷を片付け、贈物をすべて曹操に返還し、劉備夫人をともない曹操のもとを脱出します。関羽様は劉備夫人を守りながら、5つの関所と6人の将を斬り倒し、劉備のもとへと向かったと言われています。   また、「赤壁の戦い」や「荊州南郡進攻」などは、関羽様の義侠心の厚さをより一層物語るものとして語りつがれています。  まず、赤壁の戦いでは、逃げてきた曹操の命乞いに対し、それを許しています。袁紹軍の武将顔良、文醜を斬って恩を返したとはいえ、「義」に厚い関羽様は曹操の要求を断ることができなかったのです。荊州南郡の張沙城を攻めたとき、老将黄忠と一騎打ちを演じましたが、黄忠が落馬しても「馬を乗りかえられよ」と引き返していくなど、史上これほど義侠心に厚い人物は類を見ません。


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